司法試験に合格しました(寄稿:上治信悟さん)

 ジャーナリスト学校講演センター事務局長だった上治信悟さん(63)が司法試験に合格しました。知的財産管理チーム(現知的財産室)に異動したことがきっかけで勉強を始めてから9年、4回目の受験での合格です。2021年3月30日付で朝日新聞社を退社し、司法修習生になった上治さんにこれまでの道のりと今後の抱負を寄稿していただきました。

司法試験に合格した上治さん
司法試験に合格した上治さん

 私事を書くのは気が引ける。ただ、合格を知り、あちこちからお祝い、驚きのメッセージとともに質問をいただく。そこで、私の経験とともに司法試験について知っていただくため、書くことにした。

ハンコだけの仕事はつまらない

 私は2010年に全く畑違いの知的財産管理チームのマネジャーになった。
 不安を和らげるためか「部下は優秀だから、ハンコだけ押していればいい」と言ってくれる上役もいたが、ハンコだけの仕事はつまらない。そこで、著作権の勉強を始め、知的財産管理技能士などの資格を取った。

 実際、マネジャーの仕事はハンコだけではなかった。最も時間とエネルギーを費やしたのは渉外の仕事である。日本新聞協会新聞著作権小委員会の委員長や幹事として、著作権法改正について他の著作権団体と連携し、文化庁に意見書を出したり、国会議員に働きかけたりした。日本音楽著作権協会(JASRAC)との使用料金交渉は3年かかった。

 人と会って交渉するのは新聞記者のころからやってきた。のめり込むうちに「仕事をするのに著作権の知識だけでは物足りない。どうせやるなら司法試験を目指そう」と考え、2012年、渋谷にある資格試験の予備校「伊藤塾」に夜間通い始めた。合格したら、ニューヨークタイムズや読売新聞、日本経済新聞、NHKなどのように朝日新聞の社内弁護士として働きたいという思いがあった。

「近道ルート」止め法科大学院へ

最初に買った小六法。通勤電車の中で読むうちにボロボロになった

 司法試験の受験資格を得るには二つのルートがある。法科大学院を卒業するか、予備試験に合格するかである。いずれかの条件を満たせば5年間に5回、受験することができる。
 私は最初「近道ルート」と呼ばれる予備試験突破を目指した。ところが、予備試験は1万人以上が受験し、合格者は400人台にすぎない。しかも、合格者の多くは優秀で頭の回転も早い現役の大学生や大学院生である。くたびれた中年の私はかなわない。2013、2014年と予備試験の短答試験に落ち、論文試験に進めなかった私は、法科大学院ルートに変更し、通えるところを探した。その時、神保町にある日本大学法科大学院が2015年度から夜間にも開講することを知った。受験したところ既習コース(2年制)に合格したので、上司の許しを得て通うことにした。57歳で約35年ぶりに通学定期を買い、バックパックを背負って通学を始めた。

 入学時、同級生は未習コース(3年制)も含めて20人ぐらいいた。コース年限より長くかかって卒業する長期履修者を除き、フルタイムの社会人は私を入れて5人。銀行員2人、人材派遣会社員1人、歯科医1人と私で、男性が4人、歯科医だけが女性である。同級生全体のうち、年齢は私が上から3番目で、大半は私の子どもより年下だった。

自室の上治さん。定義や論証を扉に貼り付けて覚えたことも

 教員は元裁判官が多く、東京高裁の裁判長や最高裁の調査官を務めた大物が並ぶ。学者も含めて先生方は熱心で、丁寧に教えてくださった。当然というべきか、課題が出ることが多く、予習、復習を含めてこなすのが大変だった。土曜日は授業が終わった後、夜遅くまで大学院に残り、レポートを作成した。日曜日は朝から夜まで勉強しないと追いつかなかった。時間に追われる毎日で、社会人はもちろん、子どものような同級生とも強いつながりができた。
 2017年3月、無事卒業した。成績が一番だったので総代として卒業証書を受けとった(すみません。ここ、自慢させてください)。めでたく法務博士になった。あとは合格するだけだった。しかし、司法試験は甘くなかった。

4日間19時間55分のマラソン試験

 ここで、司法試験について少々説明する。司法試験は例年5月の連休明けに4日間行われる。第1日が選択科目(私は知的財産法)、憲法、行政法、第2日が民法、会社法(商法も一応出題範囲)、民事訴訟法、1日の休みを挟んで第3日が刑法、刑事訴訟法で、ここまでが論文である。第4日は短答の民法、憲法、刑法である。論文の試験時間は選択科目が3時間、他の科目は各2時間で、1枚23行の横書き8枚綴りの用紙に手書きで書く。短答では、受験者の約3分の1を足切りする。4日間合計で19時間55分のマラソン試験である。

 最終合格発表は例年9月で最近は約1500人が合格する。2020年の試験は3703人が受験し、1450人が最終合格した。
 論文試験はすべて長文の事例問題である。たとえば、2020年の憲法の問題を簡単に説明するとこうである。

 生活路線バスを守り、一方で一部の観光地などの交通渋滞に対処するため

  1. 儲かる高速路線バスの運行は、生活路線バスを運行する事業者のみ認める。生活路線バスへの新規参入は、既存の生活路線バスを運行する事業者の経営の安定を害さない場合に限り認める
  2. 特定渋滞地域において特定時間、域外からの自家用車の乗り入れを原則禁止する、という立法が検討されている。

 法律家として①②の規制の憲法適合性について論じなさい。

 憲法の教科書を見ても同じ事例は載っていない。憲法が保障するどんな権利に対する制約かを条文を含めて指摘し、規制の内容や関連する判例を踏まえて違憲か合憲かの判断基準を立て、基準に問題文の事実をあてはめて違憲、合憲の結論を出す。結論はどちらでもいい。論述の説得度に応じて点差が開く。ちなみに、私は規制①は憲法22条1項の職業選択の自由、規制②は同項の居住、移転の自由に含まれる移動の自由がそれぞれ問題となると考える。

3回連続して失敗、母の死

 私の試験に話を戻す。2017年は短答、論文を含めた総合順位が3100番台後半で、まったく合格に届かなかった。2018年は前進し1900番台前半になった。しかし、「よし、今度こそ」と意気込んで臨んだ2019年は2400番近くに下がってしまった。
 思えば、2019年は緊張のため選択科目でボールペンを持つ手が震えた。試験期間中はベッドに入ってもなかなか寝付けなかった。たいした力もないのにこんな精神状態では受かるはずがなかった。当然の不合格である。

 3回連続して不合格になると「次もだめでは」と自分自身に「推定不合格」の烙印を押してしまう。その上、大改正となった民法が2020年から試験問題に出るため、勉強をし直さなければならなかった。追い込まれた。
 そんなとき、通っていた資格の予備校「LEC」で講師に「受験までに論文を200本書いた人で落ちた人は知らない」と言われた。この言葉にすがって、とにかく過去問を起案することにした。軸が細いボールペンでは手が痛くなるので太い万年筆に変えた。

 2019年9月、鹿児島の母が脳梗塞で倒れた。見舞いに行った病院でも面会室で論文を書いた。2019年11月4日、母が亡くなった。棺のそばでも勉強を続けた。人でなしである。

そして4回目

 2020年、新型コロナウイルスのため試験日が8月に延期になった。真夏に汗だくになり、冷却シートを貼りマウスシールドをして五反田の会場で試験を受けた。帰宅すると体重が1キロ減っていた。何を食べてもおいしくない5日間が過ぎ、やっと試験が終わった。

上治さんの合格証書
上治さんの合格証書

2 019年よりもできたという実感はあった。しかし、推定不合格者として、2021年5月のラストチャンス、5回目に向けてフルスロットルで勉強を続けた。司法試験の受験生なら当たり前だがクリスマスも正月もない。
 そして、2021年1月20日の合格発表日。半休を取りLECで授業を受けていた。休み時間にスマホで合格発表を見て、自分の受験番号を見つけた。しかし、本当に合格したのかと疑った。徒歩30秒の距離にあり、受験番号を届けていた日大法科大学院の事務室に駆け込むと「おめでとうございます」と言われた。刑事訴訟法の先生で、年下の派遣検察官が感激した面持ちで「ずっと勉強を続けてこられましたね」と称えてくれた。この先生が徹底的に私の答案を添削してくれたことを思い出し、ぐっときた。

止めるに止められず9年

 合格まで9年かかった。最初からこんなに時間がかかるとわかっていたら勉強を始めていなかっただろう。不合格が続くうち、かけた時間とエネルギーのことを考えて止めるに止められなくなった。司法試験ジャンキーである。合格してやっと抜け出すことができた。
 知的財産室、ジャーナリスト学校をはじめ社内の上司、同僚には深く感謝したい。さりげない配慮や明示、黙示の応援は本当にありがたかった。
 家族は司法試験のことをほとんど話題にしなかった。妻は「あんたは死ぬまで勉強を続けてろ」とほざいた。「頑張ってね」と言われたり、お守りを渡されたりするよりもこんな家庭の方が私には合っている。

司法修習を経て弁護士に

 私は3月31日に司法修習生になった。修習期間は1年で、最初は1カ月弱導入修習をうけた後(コロナのためオンライン修習となった)、任地で裁判、検察、弁護の実務修習をする。私は東京が任地となった。修習の終わりにある試験に合格すれば、2022年春に弁護士になるつもりだ。この試験ではごく少数だが落第する。ここまできて落第しては目も当てられない。せいぜいさぼらないようにしたい。

 私は朝日新聞が大好きである。小学生のころから朝日新聞を熟読し、深代惇郎さん、松山幸雄さん、本多勝一さんなどスター記者に憧れて1980年に入社した。山形支局を振り出しに川崎支局員、社会部の警視庁捜査1課担当、国税庁担当、ニューヨーク支局員、科学部(現科学医療部)デスク、電子電波メディア局担当部長、企画報道部デスク、総合研究本部主任研究員、福島総局長、静岡総局長、販売局長補佐など、様々な仕事を経験させてもらい、たくさんの先輩、同期、後輩にお世話になった。スター記者にはなれなかったが、朝日新聞に入ってよかったと思う。今後も機会があれば弁護士として朝日新聞のお役に立てればうれしい。